ここ最近、二極化、正確に言えば、細分化が顕著になっていると感じます。
新型コロナウイルスをどう捉えるかによって、各個人の反応や行動が分かれてると感じます。
大きく分けると、『ネガティブ派』と『ポジティブ派』。
そして、ネガティブ派の方が圧倒的に多いようです。
ネガティブ派は、自分達を被害者 or 無力な者とし、不安・恐れ・怒りといったネガティブなエネルギーを周囲に放っています。
中には、自分達に同調しない人を、非難したり、見下げたりしている人も散見されます。
一方、ポジティブ派は、達感の境地に達し、非日常的な生活の中にも、喜びや幸せ、癒しを見つけているようです。
中には、今回のことを天からの啓示と捉え、探求者 or チャレンジャーとなり、自らのあり方・生き方を見直していらっしゃる方もいます。
同じ状況でも、なぜ、このような違いが起きるのでしょうか?
それは、これまでの生き方の違いが起因していると思われます。
今までも、各々の人生で、規模の大きさに違いはあれども、様々な問題に遭遇してきたはず。
その時々の対処の仕方が、現状に表れているのではないでしょうか。
「自分以外のせいにする」、「流れに任せる」、「指示を待つ」、「誰かが解決するのを期待する」、「ストレスを他人にぶつける」、「誰かを非難することで自分を正当化する」
「自ら原因を調べる・考える」、「自ら解決策を考え、実行する」、「少しでも状況が改善されるよう工夫する」、「いい考え・方法をシェアする」etc.
その違いが顕著に表れているように思います。
そして、現状、ネガティブ派の方が優勢ですからね。
ポジティブ派の方は、肩身が狭い思いをしていることでしょう。
この二極化というか細分化。
日常の人間関係でもそうですが、Twitterの中では、もっと顕著になっているように思います。
そして、日に日にあらわになってきているように感じます。
ちょっと前までは共感していた方のツイートに違和感を覚えたり、流れてくる情報に拒絶反応が起きたりしていませんか?
これは、地球の波動に合わせ、自らの波動を上げている方とそうでない方との間に、日に日に乖離が生じているのが原因と思われます。
こういった中で、互いに、少しでも快適に過ごすには、過度な干渉をしないこと。
特に、ポジティブ派の方は、もともと親切な方が多いですからね。注意が必要です。
自分では親切心からの言動でも、相手には伝わらず、かえって、互いに、不満・怒りなどのエネルギーを発してしまい、お互いや集合意識の状況を悪くします。
実は、私も、つい最近、これで失敗しました。
すると、天から『見ざる聞かざるには言わざる』という言葉を受け取ってしまいました(^^;)
『見ざる聞かざる言わざる』には、様々な意味が隠されていると以前書いたことがあります。
しかし、もう一つあったようです。
それは、『宇宙の真理を見よう聞こうとしない者には言わない』ということ。
無理に言うと、かえって状況を悪くすることになるのです。
見る視点が異なれば、感じることや、真実と思われるものも異なります。
それをいくら言ったって、平行線。
それが、例え、宇宙の真理だとしても、同じことです。
インドの寓話の『盲目の僧と象』のお話をご存知でしょうか?
6人の盲目の修行僧に象の一部分を触らせて、象とはどんな動物か尋ねると、誰もが自分が正しいと言い争いをする話です。
盲目の僧達は、それぞれが触った箇所により、「扇のようだ」、「蛇のようだ」、「槍のようだ」、「壁のようだ」、「木のようだ」、「縄のようだ」と、自分の正しさを主張するのです。
しかし、誰もが正しくもあり、間違いでもあります。
なぜなら、誰もが、象の一部分しか触ったことがないのですから…。
象の真の姿を知っているのは、象の全体像を実際に見て触って観察したことがある人だけです。
これと同じようなことが、今、起きているのです。
ほとんどの人が新型ウイルスを実際に見たことも、どういうウイルスなのかも知りません。
政府やマスコミやネット等からの情報で判断しているだけです。
例え、人工ウイルスだとしても、その開発者さえ、突然変異したウイルスの状況まで正しく理解していないのではないでしょうか。
しかし、本当の真実、つまり、宇宙の真理は一つです。
神とすべてを見通す目を持つ者だけが、それを知っています。
しかし、例え、宇宙の真理を知っても、それを誰これ構わず話して理解を求めても無駄です。
真実を知ろう、聞こうする心の持ち主でないと、それは難しいでしょう。
どうやら、本当に本人が知りたいという意思がない限りは、いくら話しても、勘違いされたり、理解できなかったり、記憶から消えるようです。
各自の学びの邪魔になったり、本人が持つべき判断軸を奪うことに繋がるからでしょうね。
かと言って、他の人に情報をシェアすることを全否定しているわけではありません。
目の前に苦しんでいる人を見て、知らん顔なんて、なかなかできないですし、すべきでもはないように思います。(各自、感じ方は違うでしょうけど…。)
私は、そういう時は、それとなく伝えて、それを受け取るかどうかは、相手次第。
それでよいのだと思います。
ネットの場合も同じです。
知りたいという方のために情報共有はしても、受け取るかどうかは相手次第です。
今の状況を俯瞰してみると、私たちの住む世界は、これから分離するようです。
そして、それも、もう始まっています。
そういう中で、『見ざる聞かざるには言わざる』。
これは、価値を共有できない者同士が干渉せず、快適に過ごす術なのかもしれません。
また、それが互いの平和、幸せを保つことに繋がるのでしょう。
Twitterを始め、snsを通して、年齢、性別、外見、肩書き等に関係なく、価値を共有できる方々と繋がっている方も多いことと思います。
これからの世界は、まさに、価値共有できる方々と一緒の世界に住むことになるのではないでしょうか。
ネットの繋がりって、魂同志の繋がりって感じもしますよね。
似た者同士の魂で繋がり、異なる者とは住み分けるのでしょう。
なんか、そんなことを感じる今日のこの頃です。
この内容が、少しでも、どなたかのお役に立てれば幸いです。