神の愛を受け取れる清らかな心

人は窮地に陥ると、「どうか、お救いください」と神頼みしたり、「神も仏もあるものか」と嘆いたり、神を罵ったりします。

そして、窮地から脱すると、神のことを忘れます。

私たち人間は、なんて身勝手なのでしょう。

私は、神様がいるかどうかはわかりません。

いや、正確に言えば、多くの人が思い描いている、人間の姿をした神様がいるのかどうか。
それには、疑問を感じます。

しかし、私たちを大きな愛で見守っている存在はいると信じています。

それは、様々な色の光の粒子でできた大きな渦であり、柱。

断面を見ると渦であり、側面から見ると、柱のようでもあり、トンネルのようでもある。
そんな長細いものであるように思います。

それを昔の人は、龍や蛇に例えていたのではないでしょうか。

そして、神社にある三つ巴の模様は、神の断面である渦を表していると思うのです。

その存在こそ、神であり、人間、動物、植物、鉱物、地球、宇宙など、すべてのものを創り出した大元ではないかと思います。

そして、創り出されたすべての存在は、神の光輝く粒子の一部をもらってきたと思うのです。

その『神の一部』は、神の本体である大元と見えない糸で繋がっており、その『神の一部』こそが、『』ではないかと思います。

』という漢字は、『』と『』いう字で成り立っています。

太古、『』と『』は同義語でした。そして、『』という字は、雲という漢字にもありますが、『モヤモヤした雲状のもの』を意味します。

』とは、『』の『モヤモヤした雲状のもの』。

つまり、神である光輝く粒子の集合体の一部でできた雲状のもの。
』とは、『光輝く神の一部を宿した雲状の塊』なのです。

神から創り出されたすべてのものは、『神の分身』だということです。

これが、太古の日本人が信じていた『八百万の神』という考え方なのではないでしょうか。

しかし、『神の分身』である私たちが、なぜ不幸に見舞われ、真実が見えなくなっているのか。

それは、この世に生まれてきてから、知らず知らずのうちに、常識、偏見、思い込み、劣等感、嫉妬、欲などを身に付け、魂が穢れているからではないでしょうか。

光輝く神の一部を宿した雲状の塊』の周りに、余計なものを身に付け、本来の姿=真実の間に壁を作ったのです。それにより、本来の自分や真実がわからなくなり、不幸と感じるのです。

私たちが、本来の自分に戻る、また、真実を知るには、いつの間にか身に付けた壁である『魂の垢』を落とす必要があります。

私は、この『魂の垢』は、魂の周囲を覆っている心の『病んだもの』のように思います。

本来、健康の心は、透明で柔らかく壁などない広いものなのではないでしょうか。
例えて言ならば、地球を包む、海や空のようなもののように思います。

それが、いつの間にか病んで、魂の垢となり壁となるのです。

私は、心は、魂(神の分身である本来の自分)を包み込み、そこから情報を受け取るナビであり、魂を外界(自分以外)から守るガードマンのような存在のように思います。

健康な心はナビとして機能し、魂から情報を受け取り、神の意に沿った行動へと促します。

また、本来の光としての輝きが外まで放たれ、本当の自分として生き、笑顔や人生も輝きます。

しかし、心が、魂ではなく、外界(自分以外)からの情報ばかりを鵜呑みにしたとしたら…。

次第に心は病み、ガードマンとして、外界から、本当の自分を守る or 隠すために、自らを不透明かつ硬くすることで、魂の壁を作ります。

ゆで卵の黄身を魂、白身と殻を心と、イメージするとわかりやすいかもしれません。

これでは、魂からの情報を正しく受け取れませんし、本来の輝きを外に放つことはできません。

心の病みが、魂を闇の中に閉じ込めるのです。

本来の自分からの情報も途絶え、外からの情報を頼りに物事を判断し、本来の自分でない自分として生きることになります。

私たちは、神の分身です。そして、神の本体、大元とも繋がった存在です。

清らかで広く柔軟な心を持てば、神である自分を取り戻し、大元の神とも繋がります。

あなたの魂や大元の神は、いつもあなたを見守っています。
そして、あなたを様々な方法で幸せへと導いています。

それは、生まれた時からずっと…

それに気づかないのは、私たちの方に問題があります。

誰かの言葉であったり、偶然目にした広告の文字をであったり、あなたに寄り添うペットであったり、大空を飛ぶ鳥であったり…。

あなたの魂や大元の神は、様々な方法で、気づきを与えたり、癒しを与えているのです。

それが、神の愛であり、救いの手です。

時には、それは、あなたには、不幸に映ることもあるかもしれません。

しかし、それが起きた意味に気づくことで、そこに隠された神の愛に気づくことでしょう。

神の愛。それは、清らかで広く柔軟な心でこそ感じるもの。

魂の垢を落として、神である本来の自分になりませんか。

心が、清らかであればあるほど、また、広ければ広いほど、そして、柔軟なほど、あなたの魂や大元の神と繋がり、その愛を感じることでしょう。