日本では、『協調性』が重視されます。
学校や職場などの集団行動が余儀なくされる所では、それが顕著です。
しかし、この『協調性』という言葉。間違った使い方をされてはいませんか?
学校や会社など、組織の指示通りに動くことが協調性なのでしょうか?
明らかに判断を誤っている上司に意見せず、調子を合わせることが協調性なのでしょうか?
他人の才能を認めず、集団で、悪口を言ったり、足を引っ張ることが協調性なのでしょうか?
何をしたわけでもないのに、集団で誰かを仲間外れにすることが協調性なのでしょうか?
弱い者いじめをしている人物にへつらい、一緒にいじめること、見ないことにすることが協調性なのでしょうか?
他にも、今の日本には、『協調性』という名のもとに、不条理なことが平然とされています。
『協調性』とは、本来、『自立した一人一人が、自分の持てる力を出し合って、お互いに満足する方向へと持っていくこと』なのではないでしょうか?
それは、他者への愛、信頼で成り立っています。
それに対し、今、日本で使われている『協調性』は、『同調性』や『均質性』が強く求められているように感じます。
どうして、こういった状況になったのか定かではありませんが、今の学校教育が、その原因の一つであることは明らかです。
みんなが、同じように考え、同じように行動する社会に、明るい未来は期待できません。
人が思いつかないようなことが思い付き、人ができないようなことができる人がいるからこそ、成長や発展があります。
外見、性格、体力、才能、特技、知識、経験、経済状況など、一人一人が違うからこそ、自分にできることを提供し合うことで、みんなが幸せになることができます。
今、日本で強いられている『協調性』は、個性や才能など、その人が持つ本来の力・可能性を封じています。
だからこそ、私たち日本人は、平和な国、豊かな国と言われながらも、閉塞感に悩まされ、イライラし、互いを監視・攻撃するとかいった状況に陥っているのです。
また、人によっては、自分の殻に閉じこもり、希望のない人生に絶望しています。
間違った協調性に騙されてはいけません。
私たちは、もっと自由に自分の意見を言い、もっと自由に自分の人生を歩んでいいのです。
一人一人が違うからこそ、助け合いができるし、自分という人間も理解できます。
『協調性』とは、『自立した一人一人が、自分の持てる力を出し合って、お互いに満足する方向へと持っていくこと』
本来の『協調性』を発揮すべく、本当の自分に戻り、本来の力・可能性を取り戻し、互いに繋がり合って、日本という国を、みんなが心から平和と思える国、心豊かな国にしませんか。