
西洋と日本の美には違いがあります。
西洋の美は、完全性や対称性(シンメトリー)を重視します。
一方、日本の美は、敢えて、間を設けたり、均衡性を崩したりと、不完全さを重視します。
それは、なぜなのか。疑問に思ったことはありますか?
私は、疑問に思いながらも、単に文化の違いだろうと、あまり深くは追求してきませんでした。
しかし、最近、気づいたのです。これには、大切な意味があると…。
完璧なバランスを保持し、完成されたものは、そこで完結。終わりを意味します。
それ以降は、その状態を維持する(=停止)か、無理に何かを加え、バランスや完全性から遠のき、崩壊の道を辿るかのどちらかの道しかありません。
一方、不完全なものは、完全になるという目標があり、そこには成長・発展・希望があります。
また、新しいものを受け入れる余地もありますし、魅力があります。
何もかも完璧な人は、一見、いいようで、意外と孤独です。
目標を失い、成長・発展・希望を失います。
また、周囲からは、近づきにくい存在になったり、嫉妬の的になります。
それに対し、どこかが欠けている一方、どこかが秀でている不完全な人は、それが、その人の個性になり、持ち味になります。
人は、そこに心が魅かれ、親しみや魅力を感じます。
昔の日本人は、そのことを知っていたのでしょう。
だからこそ、不完全であることに魅力を見出し、重視したのです。
そして、これは、単なる哲学の範疇に留まりません。
昔の人は、言葉にはパワーがあることを知り、『言霊』を大切にしてきたように、型(かたち)にもパワーがあることを知っていたため、『型霊』を大切にしてきました。
敢えて、不完全な形を選択することで、成長・発展・希望・魅力を願ったのです。
そして、究極の不完全な美が、自然の美であることも知っていました。
自然界に存在するものに、左右対称の完全形のものはありません。
しかし、それぞれが、ありのままに存在することで織り成す美があります。
これは、人間にも言えます。
この世に存在する人に、誰一人、完璧な人はいません。
誰もが、優れた所もあれば、劣った所もある。好きなものもあれば、嫌いなものもある。
それを形にすれば、パズルピースのようなものかもしれません。
パズルピースは、一つだけだと、ちっぽけな凸凹のある一つのカケラにすぎません。
しかし、お互いの凸凹を活かし、組み合わせることで、もっと大きな存在になることも、美しい絵を形作ることもできます。
人は、ありのままでよい。いや、ありのままこそよい。
ありのままとは、本当の自分であること。
本来の自分よりも大きく見せたり、小さく見せる必要はありません。
完全でなくとも、互いの不足 or充足なものを活かして繋がれば、一人でできないこともできるし、世の中や自然界のバランスを取ることも変えることもできます。
それが、『和』であり、『大和』ではないでしょうか。
そのことを忘れないよう、先人は、文化を通して、私たちにメッセージを残しているのです。
『不完全さに美を見出せる日本の文化』
それを誇りに思い、これからも大切にするのが、今、日本という土地に生きる私たちの役割であり、使命なのかもしれません。