先日、妙なビジョンを受け取りました。
『心』という字から、フワッと『因』の字が出てきて浮かび、『恩』になるというもの。
『恩』は、心から浮かび出るものだと言っているのでしょうか。
しかし、『恩』の意味は、「人から受ける感謝すべき行為。恵み。情け。慈しみ。手当。」
ここから、先程のビジョンを結びつけるのは、ちょっと無理があります。
そこで、『恩』の漢字の成り立ちを調べたところ、下記を意味するとの説が…。
『因』+『心』で、「因(もと)を知る心」。
『因(人が布団で寝ている様)』+『心』で、「慈しむ、愛情を受ける」。
上の『心』は自身の心、下の『心』は周囲の心。
これだと、上に近そうですね。
では、『恩』の言霊はどうなのでしょうか。
吉野信子さんのカタカムナで読み解くと、「非常に奥深い所から、飽和して次々と離れる」。
深田剛史さん・はせくらみゆきさん方式だと、「一から二極に分かれることで現実界に現れ、分離を統合することで、新たに始まる。」「大自然の流れに合わせて呼吸する」。
これらから、『恩』の言霊は、「内から外へと出る」エネルギーであることがわかります。
また、それぞれの言葉を俯瞰して読み解くと、下記を意味しているようにも感じます。
「この世に生まれること・生きること自体が、恩(感謝)に値する」
「何事にも意味がある。心が現実を生み出している。」
「流れに逆らわず、相反するものを受け入れ、統合し、成長することが人生」
そうだとすると、『恩』の漢字の『心』は、「自身の心」。
『恩』の漢字の『因』は、「自身が布団に寝る姿」。
この世に生を得た時、毎晩、寝る時、病気の時、この世を去る時を表すのかもしれません。
「そのこと自体に、また、そういう時こそ、人生を振り返り、恩を感じ、感謝しなさい。」
そう言っているのかもしれませんね。
また、下記のようにも感じます。
「有り難いことも、有り難くないことも、すべて自身の心の現れ(分身)。
すべてを受け入れ、感謝することで成長する。」
『恩』の『心』は、自身の心。
そこに、あらゆる人生の『因』を思い浮かべ、感謝するのが『恩』なのでしょう。
『恩』とは、「今の自分があるのは、~のお陰だなぁ」そう感じる心なのでしょうね。
つまり、『恩』は、自身の心に浮かぶものであって、自発的なもの。
外から、強いられるものではありません。
「私のお陰でしょ」とばかりに、誰かの心の上に『因』の重しを置くのは、『恩』ではない。
そんなことされたら、された方は、『心』の重みに苦しくなるでしょう。
そして、やがて、その重みに耐えかね、押しつぶされるか、その前に逃げ出すか…。
いや、「そんなものいらない」とばかりに、反撃に出るかもしれません。
それを、相手は、『恩を仇で返された』と感じるのではないでしょうか。
『仇』の辞書での意味は、「仕返しをしようと思う相手。敵。恨み。危害。」
簡単に言えば、『仇』は「敵」で、危害を与えてくる相手。
しかし、『仇』という漢字のもともとの意味は「同じ仲間」。
相手が悪いと感じるなら、自分にも悪い所があるのです。
また、『仇』の言霊は、下記のように読み解けます。
「感じ、分れさせられ、離される」「生命が分れさせられ、離される」
「ものごとの真理を見極め、異なるエネルギーを融合することで、次なるステージが開ける」
これは、次のことを意味しているのではないでしょうか。
「相手の心が離れるのには、それなりの原因があり、相手は自分の分身。
それを受け止め、気づきを得ることで成長する」
つまり、『恩を仇で返された』と感じたら、己の心を省みることが大切。
親切の押し売りや傲りではないのか。相手の自尊心を傷つけていないか。
見当外れなことをしていないか。かえって迷惑をかけていないか 等々。
そこからの気づきを得ることで、成長へと繋がるのです。
『恩』は心に浮かぶもの 。『仇』と感じるは己の心を省みる時。
この言葉が、どなたかのお役に少しでも立てたら、幸いです。