赤い鳥の『翼をください』、杉田かおるさんの『鳥の詩』という曲をご存知でしょうか。
『翼をください』は、フォークグループである赤い鳥が、1971年に『竹田の子守唄』のB面曲として発売されました。
また、『鳥の詩』は、1981年に、日本テレビ系ドラマ「池中玄太80キロ」の挿入歌として発表されました。
どちらも一昔前の名曲ですが、私は、この二曲が大好きで、なんとなく、自分の人生のテーマソングのように感じていました。
それを、つい最近、この二曲を改めて聴いてみると、その歌詞の内容に込められている、メッセージに気づいたのです。
実際に、『翼をください』の作詞家である山上路夫さん、また、『鳥の詩』の作詞家である阿久悠さんが、そういう意味を込めて作ったのかはわかりません。
しかし、私には、今の時代に生きる私たち日本人、いや、世界の人に向けたメッセージのように感じました。
同じ歌詞でも、置かれた状況、価値観、モノの見方などにより、受け取り方は異なります。
特に、『鳥の詩』の方は、聴く側により、受け取るものが大きく異なる曲だと思います。
絵画が例えるなら、抽象画のようなもの。見る側により、様々な解釈ができます。
これは、先日、ブログの記事に書いた『かごめ歌』にも通じます。
ネットを検索すると、『かごめ歌』は、様々な方が様々な角度から解釈しています。
それは、どれもが正解であり、かつ、どれもがある一つのことに結び付いていると感じます。
あなたは、『翼をください』と『鳥の詩』をどう感じますか?
では、私が受け取ったメッセージ、私なりの解釈を、ご紹介します。
『翼をください』の「私」が置かれている状況
『翼をください』の歌詞の中に出てくる「私』。
この「私』が置かれている状況をどう感じますか?
私は、鳥かごの中の鳥をイメージしました。
それも、自分が背中に翼を持つ鳥であることを忘れた鳥です。
そして、その鳥かごの扉は開いています。
いつでも、カゴから出ようと思えば出れるのです。
それなのに、この歌詞に出てくる「私」は、「翼がほしい」、「この大空に翼を広げ、飛んで行きたいよ」と、嘆いているのです。
この「私」は、不自由な世界で、子供の頃の夢を諦め、閉塞感に悩み、悲しみにくれている。
そして、自分は、富とか名誉なんていらない。ただ、自由に生きたいと嘆いているのです。
今の世の中、そういう人は多いのではないでしょうか。
少し前までは、私も、その一人でした。
自分が、鳥かごの中にいる鳥であることに気づき、その鳥かごから出ようと行動すれば、いつでも、大空に翼を広げ、飛んでいくことはできる。
それに気づかない。気づいても、出る勇気がない。
その状況が、『翼をください』の状況だと感じます。
『鳥の詩』の「私」が置かれている状況
では、『鳥の詩』の方は、どうでしょう。
『鳥の詩』の歌詞に出ている「私」は、鳥かごのから出たばかりの鳥と、感じます。
『翼をください』の状況から、1ステップ進んだ状況と言えるでしょう。
今までの人生の核であり、それでいて、自分を小さな籠の中に閉じ込めていたヒト・モノ・コトと別れ、人生をリセット。これでよかったのかと不安を感じている状況に思えます。
誰でも、人生の転機を迎え、次のステップに移ると、不安に思うもの。
前の状況が幸せに見えたり、別れて気づく愛や感謝に、迷いを感じるものです。
しかし、あなたは一人ではない。
別れたものは、雲、雪、月、風となり、静かに温かく見守ってくれるでしょう。
また、空・水・湖のように、あなたの心が、広く、清らかで、柔軟であれば、必ず、清らかで優しい神(または仲間)が現れるでしょう。
そして、あなたは、今までの厳しい夏・冬の人生から、希望の春、実りの秋である穏やかな人生を迎えるでしょう。
『鳥の詩』は、そう言っていると受け取りました。
この曲は、「人」と「鳥」を対比しながら、人=鳥であり、鳥=神であることを暗示していると感じます。
「私たちは、人であり神である。そのことを思い出しなさい。そうすれば、自由で穏やかな人生を迎えることができる」そう、伝えているように感じてなりません。
縁あって、このページを訪問いただいた方は、まさしく、これから、人生の春と秋を迎える方なのでしょう。
そうなるには、あなたを小さなかごに閉じ込めているものと別れ、新しい人生へと飛び立ちましょう。
なお、別れるものは、人により異なります。
親、恋人、配偶者、会社、自分の信念や思い込みなど、様々です。
また、既に、飛び立ち、新しい自由な世界で不安を感じている方もいるでしょう。
しかし、自分を信じ、広く清らかで柔軟な心で物事を取り組めば、必ずや神の導きがあります。
直感やひらめき、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に注意しましょう。
さぁ、あなたも、人生の春・秋を満喫しませんか。