人としての成長、そして、神(愛)へと戻る道=弥勒道において、最も気をつけるべきことは、何でしょうか。
私は、それは、『慢心』のように思います。
世の中には、預言書や人間への警告文といった文書が数多くあります。
これらを読むことは否定しません。
探求心や好奇心は気づきの源ですから、様々なことに興味を持つことは大切です。
しかし、それらを読むことで、自分は「他の人よりも知っている」、「真実を知っている」と、他の方を見下している方が散見されるのには、疑問を感じます。
中には、自分を『救世主』と公言したり、その文書を武器に他の人の意見を否定したり…。
んー、なんだかなぁって感じです。
そもそも、それらの文書に書かれている内容は、すべて真実なのでしょうか?
何を持って真実と言えるのでしょう?
予言したことが本当に起きれば、書いている内容すべてが真実なのでしょうか?
私は、それに違和感を覚えます。
私も、シンクロニシティの導きにより、そういった類の本を何冊か読んだことがあります。
しかし、同じ本の中でも、スーッと心に入る所と引っかかる所があるんですよね。
中でも、『神』や『神的存在』から、そのメッセージを受け取った本人を、救世主などの高貴な存在として認めるような記述には、疑問を感じてしまいます。
私たちは、皆、大いなる神の分け御霊。
そこに上下関係はありません。
役割の差はあれども、皆、等しく尊い存在です。
それなのに、私達の親とも言える『神』が、一人の人物を崇めるように言うでしょうか?
『神』は、愛のエネルギーそのもの。
自分から生まれた我が子を等しく愛すのではないでしょうか。
『神』に、自分を救世主と語らせた時点で、救世主でないと公言したようなもの。
意図的に書いた覚えがないのなら、心の中の『欲』が『魔』を呼び、書かせたのでしょう。
『魔』は、人の『欲』に付け入るのが上手いですからね。
そもそも、人は、なぜ、救世主になりたがるのでしょうね。
それは、「注目されたい」、「尊敬されたい」、「人の上に立ちたい」といった『欲』。
その根底には、自分への不満や劣等感があるのではないでしょうか。
私たちは、自分自身の救世主。
自ら公言して、この世の救世主にならなくとも、救世主です。
そして、救世主として、最も優先すべき務めは、自分の心の曇りを取り除くこと。
我欲、不満、劣等感、優越感、思い込み、決めつけ、プライド、世間体、見栄、嫉妬、不安、怒り、固定観念など、立ち向かうべきものは、外の世界の敵ではなく、自分の心の中にあります。
その心の曇りに気づき、自分が受け入れられないヒト・モノ・コトなどを受け入れること。
そして、気づきを得ること。
それが自分を救い、外の世界を救うことにも繋がります。
なぜなら、私達は、自分の人生の創造主であり、かつ、一人一人の意識が集合意識となり、世の中の現象を起こるのですから。
だから、重要なのは、一人一人が自分の救世主となること。
心の曇りを取り除き、ありのままの自分なり、本来の輝きと取り戻すこと。
そして、余裕があれば、世のため、人のため、地球のために、行動することです。
そもそも、無償の愛を提供できるのが救世主。
自ら名乗るものでもありません。
その人の行いに対し、他の人や神が感じるものではないでしょうか。
世のため、人のため、地球のために、自分を生かしたいのなら、行動すればよいだけのこと。
一人と言わず、皆が救世主として行動してくれれば、神様も大喜びになることでしょう。
それこそが、私たちが目指すべき方向のようにも思います。
ありのままの自分として輝きながら、世のため、人のため、地球のために、愛ある行動をする。
皆がそうすれば、この世界は、愛や笑顔に溢れた平和な世界へと変わるでしょう。
「自分は他の人よりも知っている」、「自分は真実を知っている」、「自分こそが救世主だ」
そういう考えが争いを生み、この世の平和を奪っているのではないでしょうか。
そもそも、誰かの受け売りの知識では、その内容を会得したとは言えません。
体得してこそ、自分のものとすることができます。
『学』よりも、『気づき』です。
私たちは、螺旋状に繋がる『気づき』により、自己を成長させ、悟りへと到達できます。
『学』による慢心は、本当の真実(宇宙の真理)を遠ざけ、魔の住み家となります。
救世主どころではありません。
川は、新鮮な水を受け入れ、流れて続けているからこそ、大河や海となることができます。
また、多くの生物を受け入れ、育み、その生物により浄化されるからこそ、川は、清らかな水であることができるのです。
しかし、「私は、立派な存在だ」と、新しい水や生物を否定し、出入りを禁止し、川を四方八方、塞き止めたら、どうなるでしょうか。
次第に、川の水は淀み、輝きを失い、そこに住んでいた生物も死に絶えるのでしょう。
そして、悪臭を放ち、誰も近づかなくなります。
そこに、光はなく、魔物が住む闇の世界と化すでしょう。
人も、川のように、新しいものを受け入れ、そこから気づきを得てこそ、成長し続けられます。
また、そうすることで、自らの心の曇りに気づき、心を清らかに保つことができるのです。
『謙虚』とは、自らを成長過程だとみなすこと。
人は、それにより、自分の心の曇りに気づき、成長の可能性、機会を得ることができます。
そして、心の曇りがなくなった時に見えるのが『本当の真実』であり、それをありのままに受け入れることを『素直』を言います。
また、『素直』とは、心の曇りがなくなり、清らかな心になったことでもあり、本当の自分=神になることでもあります。
弥勒の世に行くには、心の曇りを取り除き、本当の自分=神になることことが求められます。
それは、『謙虚』で『素直』でこそ、成せる業。
だから、人としての成長、そして、神(愛)へと戻る道=弥勒道において、最も気をつけるべきことは、『慢心』です。
弥勒の世に行くことを望むのなら、『慢心』には気をつけましょうね。
いつも、『謙虚』で『素直』であることを心掛けたいものです。
そして、一人の救世主に任せるのではなく、みんなが、この世の救世主になりませんか?
世の中のためになること、喜びに繋がることを、無理しない程度でいいので、しませんか?
その方が、一人の救世主に大きな負担をかけることなく、効率的に世の中を変えられます。
『一人救世主』なんてならなくていい。『みんなで救世主』になればいいのです。
この内容が、少しでも、どなたかのお役に立てれば幸いです。