『夢』『希望』『志』という言葉を同じように使っていませんか?
また、『志』よりも『夢』や『希望』という言葉を多用していませんか?
昔の日本では、『夢』や『希望』よりも『志』という言葉を使っていました。
しかし、今は、どうでしょう。
『志』という言葉の存在は薄れ、『夢』や『希望』という言葉の存在が増しています。
どれも「実現させたいことを願うことやその願い」を意味しているように思います。
しかし、同じ意味のようで、実は、状況や内容に違いがあるのです。
『夢』は、辞書では、「将来実現させたいと思っていること」や「現実離れし、空想や楽しい考え」、「はかないこと。たよりにならないこと」を意味します。
また、『夢』という漢字から紐解くと、目の上に草が覆い、下には、夜を象徴する月を意味する「夕」があることから、「はっきりしない」様子が読み取れます。
『希望』は、辞書では、「未来に好ましいことの実現を願うこと。願い。」「 将来に対する期待。また、明るい見通し。」の意味です。
漢字をそのまま読めば、「希な望み」。
『希』とは、「少ない」「薄い」「かすか」。『望』は、「願い」「眺め」「もち(満月、満月の日、陰暦十五夜の月)」を意味することから、「明るい兆し」があることが読み取れます。
『志』は、辞書では、「心に決めた目標・目的。信念。」「思いやる気持ち」という意味。
そして、『志』という漢字の『士』は、「之」の字で足の象形文字で「行く」という意味です。
つまり、『志』には迷いはなく、「心(内)から発露した願いに向けて歩き出している」様子が伺えます。そして、その願いには、周りを思いやる気持ちが含まれているのです。
『志』は、私利私欲を満たす願いではなく、公利公欲であり大欲を満たす願いなのです。
要約すると、「ああなるといいなぁ」「こうしたいなぁ」といった願いを持ちながら、
はっきりせず、いつか消える一時的なものが『夢』です。
かすかな明るい兆し、一筋の光が差している状態が『希望』。
皆を明るく照らす光に向かって進んでいる状態が『志』です。
願いの実現度と皆の幸福度を表すと、『志』>『希望』>『夢』。
あなたの願いは、『夢』ですか?それとも『希望』ですか?『志』と言えますか?
「夢も希望もない」とお嘆きの方、夢や希望がないのなら、志を持てばよいのです。
志があれば、あなたの人生も充実し、皆を幸せにします。
自分の住む世界が真っ暗な闇だと思うのなら、周囲を照らす光に向かって歩き出すのです。
周囲を照らす光とは、心(内)から発露した願い。
自分の心の奥から欲するものであり、皆の幸せに繋がるもの。
常識や世間体、誰かの意見など、外から来るものではありません。
私利私欲を満たすだけのものでもありません。
同じ『志』持つ者が繋がれば、より一層、願いの実現度は増します。
より光り輝く幸せな世界に変わることでしょう。
『志』の存在が薄れたからこそ、この世が闇に満たされ、願いは儚い存在になったのです。
この世の中を皆が幸せな平和な世界に変えたいのなら、そこに繋がる『志』を持ちませんか?
あなたの『夢』や『希望』を『志』にしませんか?